九州旅行:写真と解説
第3日・1027日;島原、熊本観光-2


熊本城入場門と肥後もっこすの衛兵



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平成年20(2008)10月25日〜11月1日  (8日間)
日 程 主要観光コース 宿泊地
第1日  厚木自宅⇒羽田発7:30⇒⇒⇒福岡空港着9:15⇒空港(マツダレンタカー)⇒香椎宮⇒海ノ中道⇒宗像大社⇒門司・レトロ街⇒福岡市内(中洲、天神で夕食)⇒宿泊(平和台ホテル)
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福岡
第2日

 ホテル⇒大宰府と天満宮⇒武雄温泉(元湯・入浴⇒大村湾P・A⇒長崎平和記念公園・浦上天主堂⇒グラバー亭、大浦天主堂⇒宿(長崎ワシントンホテル)⇔繁華街、めがね橋、中華街・・・夕食)
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長崎
第3日

ホテル⇒諫早干拓堤⇒小浜温泉⇒雲仙地獄・温泉(仁田峠スカイライン)⇒深江道の駅、災害記念館⇒島原F・T⇔島原城、武家屋敷跡⇒⇒⇒熊本F・T⇒熊本城⇒宿(六花の湯・ドーミーイン熊本)⇔熊本繁華街(夕食)
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熊本
第4日

ドーミーイン熊本⇒水前寺公園⇒南阿蘇鉄道(みなみあそみずのうまれるさとはくすいこうげんえき:日本一長い駅名)⇒阿蘇中岳火口⇒阿蘇・草千里⇒大観峰(阿蘇外輪景勝地)⇒飯田高原・長者原⇒九酔峡(九重大吊橋)⇒筋湯⇒黒川温泉:御客屋旅館(宿泊)⇔散策・ふもと旅館(立寄り湯)
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黒川温泉
第5日 黒川温泉・宿⇒九重I・C⇒大分空港⇒国東(仏の里)⇒両子寺⇒天念寺、川中不動⇒長安寺⇒富貴寺⇒伝乗寺(真木大堂)⇒熊野磨崖仏⇒宇佐神宮(八幡宮総本社)⇒鉄輪温泉:陽光荘(宿泊)
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別府・鉄輪温泉
第6日 鉄輪温泉・地獄めぐり:海地獄⇒かまど地獄⇒地の池地獄⇒宿
宿⇒別府市内、竹瓦温泉(立寄り入浴)⇒陽光荘

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別府・鉄輪温泉
第7日 陽光荘⇒湯布院(由布院散策、金隣湖、下ん湯 ( したんゆ )立寄り湯、「天上桟敷」(休憩:モン・ユフ、林檎のコンポート)⇒湯平温泉(散策:共同湯・中央湯入浴)⇒湯布院⇒宿・陽光荘⇔ひょうたん温泉(立寄り湯、食事)
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別府・
鉄輪温泉
第8日 宿(光陽荘)⇒大分道・玖珠⇒深耶馬溪(一目八景⇒耶馬溪ダム⇒溪石園)⇒本耶馬渓(羅漢寺⇒青の洞門・競秀峰⇒オランダ橋)⇒R496(魔林峡、猿飛千壺峡)⇒英彦山・高住神社⇒花公園ケーブルカー⇒⇒奉幣殿⇒参道⇒旧亀石坊(雪舟庭園)⇒小石原(道の駅)⇒秋月⇒大分道・甘木⇒福岡空港(レンタカー返却、土産、夕食)、20時45分発⇒⇒⇒羽田22時15分着(息子送迎)⇒自宅帰着
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島原城





この島原城は一見して、どうも日本のお城のイメージとはちょっと違う・・、
五層の天守閣があるのだが、
この五層は単に五枚重ね合わせたようなノッペリ形をしており、
日本建築の造形美を演出している重要な構造物である破風(はふ)が無いのである。 

破風とは屋根の切妻部分についている合掌形の装飾のことをいう。 

これらの破風が日本の神社仏閣、
それにお城の美しさを際立たせているという。 

ところが島原城にはこの破風がないのである。 


歴史作家の司馬遼太郎氏はこの特異な城を、

松倉重政は領民との戦いを築城時から想定していて、
天守閣から閣内に侵入してきた敵を射抜くために
こういう構造にしたのだろう。
破風があっては射てない角度が出来てしまい邪魔なのである。
島原の領民がキリシタンであり、
家康から暗にキリシタン弾圧の役割を期待されていたのではないか

と推定している。




島原藩武家屋敷群




島原藩武家屋敷群


島原城の西に続く一帯を、
鉄砲町と呼び島原城の築城とともに形成された。

鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、
造成当時隣家との間に塀がなく、
まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、
その名がつけられたと言う。 

7つの町筋は碁盤の目のようにできており、
ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸あったという。



島原湾より望む「眉山」、後方は普賢岳



美しい大小の島々・「九十九島」(つくもじま)
島原外港に点在する九十九島の奇観は島原大変の時、
海に流れ込んだ土砂の跡である



島原大変、肥後迷惑
・・!!

島原には江戸期以降、三つの大事件が起こった。

 一つは、1637年(寛永14年)に発生した「島原の乱」という事件、
二つ目は1792年(寛政4年)、雲仙岳が大噴火し、
眉山の南側半分が裂けて有明海に崩れ落ち、
島原城下の三分の二が埋没、
大津波が起こり対岸の肥後地方に押し寄せた「島原大変 
肥後迷惑」と呼ばれた地変。 

三つ目は1990年(平成2年)、
普賢岳の噴火よる災害で40数名の死者を出し
「火砕流」の恐ろしさが世界に認識された地変である。



島原港と眉山


島原フェリーターミナル
(島原発
15453,530円(車)+800


島原⇔熊本フェリー
(熊本着17:30、3,530円(車)+800円




熊本フェリーターミナル到着


熊本駅と市電



西の丸車止の「頬当御門」から入城


熊本城天守閣



御門正面の熊本城主天守閣


大天守閣より小天守



熊本城土台築石の「武者返し」


新装なった熊本城・本丸御殿



豪華絢爛の本丸御殿室内・「昭君之間」



熊本城は、中世の頃には千葉城、隈本城として築かれ、
安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、
現在のような姿の熊本城を築いた。 

日本三名城の一つとされ、
「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、
五階櫓などが詰め込んだように建てられ、
一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。 

西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や
櫓など主要な建物を焼失した。 

独特の石垣は始め緩やかな勾配のものが
上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と
呼ばれる形状の石垣を多用していて、
攻撃されにくい構造となっている。

本丸御殿は、数10億円をかけて平成20年に完成、
華美な障壁画や「昭君之間」などが一般公開されている。


往時の「本丸御殿」は藩主の居間、対面所と見られるが、
特筆すべきは華美な障壁画や「昭君之間(しょうくんのま)、
若松之間(わかまつのま)」など特別の間が在り、
それに全国的にも類例の無い地下通路である
「闇り通路(くらがりつうろ)」と呼ばれる特別な設えもあるという。 

この本丸御殿や昭君の間は、
城主の清正にも不釣り合いな程の相当な貴人を
招き入れる格式の高い様式であり、
清正よりも高貴な人・つまり豊臣秀頼のために
造られたのではないかとも云われる。 

関が原戦後、再び豊臣方と徳川方が戦った場合、
豊臣家に絶対の忠誠を尽くす加藤清正は、
豊臣秀頼をこの城に迎え入れ、
徳川方と一戦交える覚悟だったとも言われている。




熊本の商店街・上通アーケード通り(夕朝食はこちらで・・、)



熊本の市電


天然温泉 がある「 ドーミーイン熊本



最上階に露天付!天然温泉大浴場「六花の湯」を完備


宿名:  天然温泉 六花の湯 「ドーミーイン熊本」 
電話番号:  096-311-5489 
所在地:  〒860-0804 熊本県熊本市辛島町3−1 
チェックイン日時:  2008年10月27日17:00 

3,500円(大人)× 2名 小計:7,000円(食事なし) 


        

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