東北紀行(内陸部)
東北地方の主に内陸部の土地々々の観光、温泉、歴史を巡ります。
( 「日本周遊紀行」の続編 )

平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形



東北で栄華を誇った「藤原四代」の象徴;「平泉・中尊寺金色堂」(国宝;wiki)

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祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史敵文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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「東北」とは・・?、その歴史の一端・・!


先ず東北でも北の果て、青森の「三内丸山遺跡」には先ず驚かされた。 

縄文時代前期の凡そ5000年も前もの、大規模集落跡だそうである。 
尤も、東北北部から北海道南部にかけては同様の遺跡が点在していた。

「北緯41度でつながる文明地、文明都市」 という発想があるらしい・・!。
北緯41度は青森・三内円山から東方に
ニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 
いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。 

もしかしたら、往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、
勿論、日本の中枢都市でもあったとも想われるのである。


近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実で、
蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだ。 

しかし、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降
ほんのチョット南・西にズレたにすぎないとも思われるのである。 

小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!!、と言いたいところである。


縄文期の東北は弥生文明に翻弄されてきた事実がある。 

はたまた近代では江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
この時、「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、
その象徴が会津戦争だった。 
その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国・下北へ流されているのである。

想像するに、その地域の歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。



更に、東北・北東部は面白い・・!!

平安初期、「坂上田村麻呂」が稲作キャンペーン武装集団が東北の蝦夷(エミシ)を討伐した。 
その痕跡が日本三景の「松島」(五大堂)や多賀城(現在の宮城県多賀城市)に観ることができる。 
松島は余りの美景に芭蕉が句を詠むのも忘れたとも云われるところだが・・?  

それは兎も角、中世・陸奥国は以降、安倍氏が勢力を伸ばし2世紀にわたって実効支配していたとされた。
ところが、11世紀半ばの平安後期「前九年の役」、
更に、「後三年の役」が勃発し、安倍氏は滅亡した。 


その後100年に渡る「奥州藤原家」が誕生する事になる。  
平安時代、奥州藤原氏4代(藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡)
による1世紀に亘って繁栄を誇った時代で、
4代目の藤原泰衡の時代に、源頼朝によって滅ぼされるまで、
東北地方の中心として、当時の京都に匹敵するといわれるほどの発展を遂げた。
特に、藤原清衡によって創建された中尊寺、基衡が創建した毛越寺は
平泉文化
と言われ、北上流域文化ともいわれた。
地方豪族が築いた文化としては最高のものとされ、華麗な黄金文化を築いた。 

その北上川は社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。
因みに、その河口が伊達・石巻であった。 
江戸期には伊達政宗が舟運の便を開き、
上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え江戸へと向かったという。 
伊達政宗は北上川に長大な「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。


「八戸」周辺には、「戸」という行政地域が多い。 その戸(へ)とは・・? 
地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。
平安末期の12世紀、さしもの栄華を誇った藤原家は
源頼朝」によって滅ぼされているのは周知である。

頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、
この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部氏に、
広大な領土(糠部・ぬかのぶ五郡)を預けている。 
糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、
現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。

この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。 
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。 
頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。
南部氏は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、
かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。 

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 
その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、
青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして「八戸市」がある。
そう、「南部」というのは方位の北部、南部ではなく、人物の名前だったのである。

津軽半島の北部、“うらぶれた“地域に「十三湖」が光っている。
この十三湖、つまり「十三湊」は鎌倉期の12世紀後半から
凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。
当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 
この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、
平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、
その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。
安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、
海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 

今は遺跡となっている十三湊であるが、
特筆すべきは室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は普通、木製品が中心だったが、
この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。
当時の十三湊は、当国日本を代表する「三津七湊」の一つであるといわれた。 
三津は近畿、九州であるが、七湊は全て日本海よりで、
しかも東北、北陸地方というのが当時の文明、文化が偲ばれて面白い。


そして、歴史の中から忽然と消えた「十三湊」・・、

室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、
その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、
野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 
その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、
飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。 

その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 
この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、
一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。
十三湊は今でも砂礫の中に埋まっているそうで、
まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である・・!。


東北地方をエリアとする盛岡出身の作家・「高橋克彦」氏は・・、

 古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 
弥生文化に席巻された縄文文化;
中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;
豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);
官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 
その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、
勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 
こんな国が他にあるだろうか・
・  』

・・とも述べている。


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