東北紀行 (1
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史的文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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 東北紀行 「はじめに」  .


過ぐる年に北海道、沖縄を含めた日本一周旅行を試みた。
一周なので主に沿岸部が主体であったが、今度は内陸部を主体に主なところを訪ねてみようということで、取敢えず小生の出身地でもある東北地方を試みることにした。
小生の現在の居住地は神奈川県(厚木市)である。 
出身地が福島の「いわき」なので、当地で先ず先祖の墓参りをいたし、其の後、福島県の中央部、宮城、岩手の中央部、更に秋田、山形の中央部を巡り、福島の会津へ到った。 
道中の第一の目的は「観光」なので、チョット著名な温泉などに浸かりながら土地々々の主な出来事や小史を併せて尋ねてみた。
尚、小生の「日本周遊紀行」をはじめ、併せて各地旅行記録、国内世界遺産、山紀行などホームページ、ブログを下記に載せておりますので参考にしていただければ幸いです。


東北地方・「序」

古代、律令制(大宝、養老律令)が実施されてから日本という国名が付けられた。 併せて、国の形や境界、地域国名、往来道路の名称が付された。
其の中で北の地、東北地方には陸奥国、出羽国という二つの地方国が置かれ、これが江戸時代まで続くことになる。
陸奥国と出羽国の領域に相当する地域を、両国の「奥と羽」をとって「奥羽地方」とも言った。

陸奥国の国府が仙台平野の多賀城に置かれ、出羽国の国府が庄内平野の酒田に置かれたが、ことでわかるように、陸奥は「内陸国」の、出羽は「沿岸国」の傾向が見られる。
太平洋側(陸奥国)は、平野部がいわき市周辺、仙台平野、八戸周辺のみと乏しく、波も荒く海流も強いため、陸上交通は関東地方との関わりが深く「内陸国」としての歴史が綴られている。
一方、日本海側(出羽国)は、沿岸に庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野が、ほぼ均等な間隔で存在しとぃる。 日本海の北前船に代表されるように古代から明治時代まで、海運による京阪、近畿地方との関わりが深く、「沿岸国」としての歴史が綴られている。


陸奥の国は古代、国内で初めて「」が産出したとされる。 
この金を都(大和)に贈呈して大和の象徴とされる大仏殿(奈良の大仏)が出来上がったとも言われる。 これがきっかけで中央政府とされる大和王朝は、陸奥の国との関係を深めていく。
しかし、この奥州という国を分散支配していたのは各地の豪族たちで、蝦夷と呼ばれた人たちであった。 蝦夷(えみし、えびす、えぞ)とは普通、蝦夷地(えぞち)のアイヌ人を指すようだが、広い意味では北方に住み、畿内の大和王国によって異族視されていた人々に対する呼称でもあった。 俗に、蝦夷とは「勇敢な田舎の人々」を意味するともいう。

蝦夷は、日本国家が成立する以前、畿内のヤマト地方を中心とする大和王国(大王、後の天皇政権)との争いが、凡そ800年の間絶えなかったともいわれる。 それは西暦の年号が始まったあたりからともいわれる。 最終的に決着を着けたのが、平安京・桓武帝による坂上田村麻呂の征夷軍であった。
しかし、その後の奥州も蝦夷(この頃は俘囚:ふしゅうといった)による反乱や平泉文化が華開くも源頼朝による藤原氏征伐、秀吉による奥州仕置、果ては明治維新の戊辰戦争など、常に中央から虐げられ、戦乱が続いた。


岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 縄文期の蝦夷から近代の官軍の東北侵攻まで、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか  』とも述べている

これら、東北に流れる「歴史の川」を、「温泉」に浸かりながら探ってみたい。
次回、第1回は福島、「いわき湯本」から






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  東北紀行(1)いわき湯本 「田舎墓参」  ,


在住が神奈川県厚木市であるため福島県の「いわき」へマイカーで向かうのには、東名高速、都心首都高速、そして常磐高速が一般的である。 ただし、東京都心が渋滞する場合は、最近(2010年)完成した大橋JCTから中央環状線を利用して三郷JCTへ迂回するルートもある。
今日は日曜日の早朝でもあり前者がよかろうと思い、無事渋滞も無く通過することができた。

6時過ぎに自宅を出発し途中、常磐道のS・Aでゆっくり朝食を摂りながら、我が故郷・いわき市湯本へ着いたのが午前11時前には着いてしまった。 
いわき湯本ICから10分もしないで本家(父親の出生地)に到着、仏前と主人へ挨拶、少々の談話を交わす。 その後、白鳥町の菩提寺・龍勝寺の墓地へ向かい、簡単な清掃と献花、焼香、拝礼を行った。

田舎の墓地、墓参 ,
年に最低一度と心得て、田舎の地への墓参であった。
我家の両親と兄弟が眠る墓、墓地は福島県いわき市白鳥町の寺院にある。 だが現在、我が家族は神奈川県周辺に在住していて、墓地と在住地は遠隔の地である。 従って、お墓の管理とお墓参りは疎遠になりやすいが、最低でも年に一度は参ろうと心に決めている。

ただ、有難いことに我が家の親類縁者(従兄)がお寺の近隣に在住しているので、お墓の管理などの面についてはチョッと甘やいでいるのだが。
しかし、何れも高齢の身になりつつあり、次世代になって遠隔地にある墓地はどうなるのか、些か思案するところでもある。 遠地にある墓苑、墓地は年月が経るに従って、無縁仏に成るようなことも最近では報じられていて、そのようなことは余りにも忍びないのである。

因みに、一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されるが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てくる。
こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりする。
無縁仏は、「三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)」という石塔に埋葬されているところもあるという。
たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりすればいずれ無縁仏と化す。 確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどるともいわれる。
一部にはこうした考えを背景に墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあるようだ。
これは都市部などに見られる墓地不足、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による管理維持への不安なども背景にはあるのだろう。

次回、最近の霊墓事情


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