東北紀行 (12
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史敵文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010



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 東北紀行(22)福島 「佐藤氏と継信・忠信兄弟」  ,



翌朝、時間が制約される中、朝食後急いで支度にかかり出発する。
岳温泉から東北道の二本松ICまで、概ね、20分で到着した。

時間的制約というのは、高速道路でETCを利用する場合の割引制度があり、その中の1つに「通勤割引制度」がある。 その制度とは、入口料金所または出口料金所を午前6時〜午前9時までの間、または午後5時〜午後8時までの間に通過すれば100Kmまでしゃ50%の割引として料金計算されるのである。 
尚、余計かもしれないがETCカードを別々に2種類持ち合わせる場合は、倍の200kmまで利用できるのである。

これから東北道・二本松ICから花巻まで向かう予定だが、因みに、二本松⇔花巻は通常では(245.3km、2時間半、料金5500円)、ETCを利用すると二本松⇔仙台宮城(96km 、2,650円、通割1,350円)、仙台宮城⇔平泉前沢(99.4km2,750円、通割1400)平泉前沢⇔花巻南(49.5km 1450円、平割1000円)で、3350円で走れることになる。
二本松ICへは、当初思っていた通り、7時45分にゲート・インすることができた。



佐藤氏と継信・忠信兄弟  、

先ず、福島市街地に到る。
中世の頃、福島、及び福島県の中央部である信夫、伊達、白河地方を支配していたのは奥州平泉の覇者・藤原氏で、其の三代目・秀衡の下で管理を任されていたのが豪族・佐藤基治(佐藤庄司ともいう)という人物であった。
基治は、その秀衡の私有地の、荘園管理の職名を庄司(荘司;荘園の領主の命を受けてその荘園を管理していた職名、郡司で荘司を兼ねるものを大荘司という)と称したので「佐藤庄司」とも呼ばれ、湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていた。


源氏の御曹司・「源義経」は平清盛に捕えられ仏門修行で鞍馬山に入っていたが、その後、密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。
同様に平治の乱の後、伊豆の地に蟄居幽閉(実は全く自由であった)されていた源頼朝であるが、源平物語の段でいよいよ平家衰退が見え始めた頃頼朝が挙兵する。
併せるように義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつける。
この時、福島(出身は奥州信夫郡:現在の福島市飯坂町)からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。

継信と忠信は義経四天王といわれる勇猛な兄弟で、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。 
兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
一方、弟の忠信は頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。 その後、六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。

無事奥州に下った義経一行は平泉に向かう途中、福島の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。
福島市飯坂町にある寺院・医王寺は、信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺で、境内には、平安時代末期の武士で奥州藤原氏の姻族・佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓が残されている。

後年、松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に訪れ、

「 笈も太刀も 五月に飾れり 紙のぼり 」
(弁慶の笈:おい、も義経の太刀も、5月の端午の節句に紙幟と一緒に飾って祝ってもらいたい)

という句を詠んでいる。

松尾芭蕉が医王寺宝物として所蔵していた弁慶の笈や義経の太刀を見て詠んだ句で、句中に登場する「」は武蔵坊弁慶が寄進した物という言い伝えがある。
尚、奥州藤原氏については後ほど詳しく、

次回、仙台の始祖・「伊達政宗




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 東北紀行(23)仙台 「始祖・伊達政宗」  ,


福島から宮城にかけては褶曲した山間地を走る。
村田からは山形道が通じているが、その庄内山形や「蔵王」の事については帰路立寄ることになっているので、記述はその時にいたします。

さて、仙台はさすがに東北一の街で、高層ビルもチラホラ見えている。
杜の都・仙台市は慶長5年(1600年)伊達政宗が開いたというのは衆知のことで、仙台といえば伊達藩、伊達藩と言えば「伊達政宗」であろう。

東北の覇者、「伊達者」(だてもの)といわれた正宗は、御存じ「戦国の雄」として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」ともいわれる。 
伊達者(だてもの)」とは、朝鮮出兵時に政宗が揃えた戦装束が余りに派手で華美なものであり、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となったことから呼ばれるようになったといわれる。 これ以来、派手な装いを好み、着こなす人を指してと伊達者と呼ぶようになったと伝えられる。

だが、正宗の本音は派手好みの秀吉の気に入るよう、危ない橋を渡らないようにと十分な気配り、計算をしたものでもあった。 
この「伊達者」から、人目につくように形を表す意味;侠気を示す意;派手に振舞うの意になり「伊達な若い衆」、「伊達や粋狂じゃない」などと言われ、又、見えを張ること;外見を飾ることで「伊達めがね」などと言われるようになった。



伊達政宗は1567年に「米沢城」で生まれている。 
1567年といえば室町末期に当り、世は戦国期の動乱に入ろうとしていた時期である。
因みに、同時期の織田信長(34歳)は美濃・斉藤家の稲葉山城を陥し、「天下布武」を発して京に上った時期であり、秀吉(31歳)は信長傘下で墨俣城を築城し、美濃攻めで稲葉山城を攻略、美濃の竹中半兵衛を軍師に迎える。 
又、家康(26歳)は、今川義元亡き後、武田信玄と協定して今川氏の領国を割譲し、遠江(とうとうみ)を得ている。

豊臣政権下の政宗25歳の時、米沢の約150万石から73万石に減封となり、岩出山城に入る。 米沢城はその後、米沢藩の主城となり上杉家の名相・上杉景勝、上杉鷹山(ようざん・治憲、日向国高鍋藩出身)などの居城として有名である。 


伊達政宗は豊臣政権時代から隙あらば天下を収奪しようと何度も策略していたとされ、中央から常に警戒されてもいたという。 
彼は『あと20年早く生まれていれば、天下が取れたのに』と悔しがっていたともいわれる。
徳川期の正宗は、後の三代将軍・徳川家光からは尊敬されていたらしい。 
家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともあり、将軍就任の際に、正宗は率先して頭を下げ諸侯を抑えたともいわれる。 
病床に着いた際も将軍・家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。 
将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったともいわれる。
伊達者・伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月江戸で永眠した、享年70歳であった。 

独眼流正宗は、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられているという。

辞世の句は・・、

  『 曇りなき 心の月を 先だてて 
               浮世の闇を 照してぞ行く
 』



次回、仙台・「青葉城




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