東北紀行 (13
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(24)仙台 「仙台城(青葉城)」  ,




青葉城址の伊達政宗公が仙台市内を見下ろす



仙台城は、約270年に亘り伊達氏代々の居城であった
主城・「仙台城」は伊達政宗によって江戸開府直前の1601年に築城が始まり、併せて城下町・仙台の建設をはじめ、居城も完成と同時に岩出山から仙台城へ移している。 

政宗は、「大坂の役」(大阪夏の陣)での重臣・片倉重長が後藤基次(後藤又兵衛)らを討ち取り、又、真田幸村の攻勢を受けて立つなど大きな功があったとして開府後、家康より60万石を安堵されている。

正宗は幕藩体制時代になって世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、「貞山堀」と呼ばれる運河を整備し、北上川水系の流域を整理、開拓し、現代まで続く穀倉地帯を造り上げている。 
この結果、仙台藩は石高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したという。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも言われる。
文化的にも上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社(社殿は国宝)や松島の瑞巌寺などの建造物を残している。


仙台城」は、現在の仙台市の青葉山にある山城で、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に亘り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でもあった。 
幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、幕末、奥羽越列藩同盟など戊辰戦争を経るも、一度も戦火にまみえることなく要塞としての機能を終えた。
その後城郭は、明治初期から大正にかけて本丸破却、大火により二の丸焼失、又、昭和期の戦災によってその大半が失われたという。

「仙台城」の本丸は、海抜115〜140mの丘陵台地に立地し、東西約240m、南北260mの広さがあって、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山と呼ばれる深い原生林に囲まれ、南側を竜の口峡谷が囲むという天険の要害となっていた。

青葉山に位置する事から「青葉城」という雅称を持ち、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。 
青葉山は、仙台七崎(藩政期から呼ばれている仙台市内にある七つの崎が付く地名)の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。
正宗は、仙台城は山城で、江戸期における平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていたともいう。


「仙台城」、「仙台」の名前の由来は・・?
仙台城は、かって国分氏の居城があったところで、其の名を「千代城」と名付けていた。
陸奥国の国分氏は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族であり、戦国時代末に伊達氏に臣従したが、伊達政宗の不興を買って滅んでいる。
1601年、伊達政宗 が今井宗薫(秀吉の御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康と接近し、家康の子・松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫:いろは姫の婚約成立に尽力している。)にあてた書状の中に、『去る十四日此地仙台へ相移り申候』と記されていることから、 伊達政宗が「千代」から「仙台」に命名されたといわれる。

次回、岩手 「北上川




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 東北紀行(25)岩手 「北上川」  ,



岩手県に入ると早速、一関である

一関は如何にも関所に関したような名前のつけ方である。
平安後期まで俘囚(ふしゅう:朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷:えみし)の長として奥六郡を支配した安倍氏が一の関、二の関、三の関と砦を築いた事によるという説や平安末期に奥州一帯を支配した奥州藤原氏が、平泉の南側を守るために置いた関所に由来しているという説がありようだ。 
いずれにしても、この地は古くから「」であったといわれる。


この関の北側である一関から北へは東北道自動車、国道4号線、東北新幹線、東北本線と名だたる主要幹線が南北に縦貫している。 
しかし、これは近代、現代に到ってからのことで、この地域の最大にして特徴的なのが真っ芯に「北上川」が動脈のように流れているのである。
それ以前の交通、通商の手段としては奥州街道もそうであったが、何といっても北上川である。

北上川は、岩手県、宮城県を流れる本流水系で、延長距離が249kmと比較的短いが、流域面積は東北最大であり全国でも4番目に入る。 
また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっていて、其の流域の大半は岩手県の中央部を貫通している。
その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻、盛岡そして厨川といった奥羽地方の名だたる名称が、既に大和朝廷の時代から知られる地域名が多く並んでいる。 

そして、北上川は盛岡市内の中央部を貫流し、更に北上して岩手県北部・岩手町に到り、御堂観音(いわて銀河鉄道・旧東北本線「御堂駅」)の右裏手にある清冷な泉の湧く処、この地が古くから北上川の源泉だと伝えられている。
11世紀半ばの前九年の役で源頼義、義家父子が、この地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、清水がこんこんとわき出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したといわれている。 この泉を「弓弭の泉」と称している。


最も古い北上川の利用記録は、平安時代に東北の蝦夷(えみし)を討伐した武将として知られる坂上田村麻呂によるもので、北上川の支川である雫石川のほとりに、彼が造営したとされる志波城址がいまも当時の面影を残している。

古代奈良期の頃までは、この辺りは未だ東国・蝦夷(えみし)といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう。
大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 
そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂よって、一応の決着をつけられるのだが。

又、古代末期の東北の現地豪族して知られる安倍氏による城柵は、北上川の河畔に数多く建立されていて、川崎村の北上川と砂鉄川の合流部付近には船着場のような石積みの跡が確認できるという。
東北の蝦夷(えみし)たちは一般に俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれるようになり、その維持政策管理を任されていたのが安倍氏であった。 
だが彼は朝廷に対して反乱を起こすことになる。 
これが「前九年の役」、「後三年の役」という戦役であった。 
この戦をを経ながら、北上川流域に藤原全盛期を迎えることになる。


次回、引続き「北上川流域




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