東北紀行 (14
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史敵文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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 東北紀行(26)岩手 「北上川(2)」 ,




 盛岡市中心街を流れる「北上川」と岩手山



その後の奥州藤原氏による平泉文化と呼ばれる中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される東北独特の文化圏を形成した。このことは北上川の豊かな流れを利用した川舟の流通無しには考えられない。
北上川の舟運は、当時の経済及び軍事や政治においてまさに生命線ともいえるもので、舟運路の確保は各豪族たちの関心事であった。


時代は下って江戸時代になると、河口にあたる石巻港は北上川水運によって岩手南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 
これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。


この頃、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。 
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。
仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、近年になって津山町付近で洪水防止のため新たに開削された新北上川(追波湾:おっぱわんに注ぐ)と旧北上川(石巻湾)とに分かれる。 


北上川は、それらの戦役を含めた社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていて、別称・北上川流域文化圏とも呼ばれている。
宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」なのである。 

北上川周辺には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布していて、それは苦難の歴史を秘めていることでもあるが、今は只、ゆったりと流れている。

次回、岩手 「東北で国内初の金産出




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 東北紀行(27)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」  ,



明治維新で東北諸藩の多くは賊軍とされ、この時、長州の誰かが「白河以北は一山百文」(東北の価値)とあざけりを受けたことがある。 
尤も、盛岡出身の原 敬(はら たかし)はこの話を聞いて、号を「一山」(のちに逸山)に定めたという反骨精神の持ち主であった。
原 敬は、南部(盛岡)藩の名家の出身だが、分家して士族から平民となったため、「平民宰相」と呼ばれ人気が高かった。

しかし、奥羽地方は「一山百文」どころか、とんでもなく光り輝いた時代があった。それは金の文化といわれる平泉に栄華が開かれる遥か以前のことであった。



海ゆかば」   作詞 大伴家持

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ




この歌はご存知『海ゆかば』であるが、日本海軍の歌ではない。
ただ、1937年(昭和12年)に国民の戦闘意欲、高揚を意図して制定された曲というのは事実であった。
それ以前に明治天皇が、この文言は天皇を崇敬する気持ちの現れであるとして、「軍神を紫宸殿に祭る祭文」の中にも引用されたという。


原文は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」 大伴家持
(陸奥国からの金が産出し、天皇の御代をたたえる御祝歌)

現代語訳
『 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(当時の聖武天皇)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり  (以下略)   我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 『 海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない 』と誓って  (以下略)  朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい 』


歌の中で家持は、産金地を「陸奥の小田なる山」、「みちのく山」と詠んでおり、万葉集に登場する地名の中では最北・最東の歌となっているという。
実際の当時の金の産地は古代から中世にかけては陸奥国小田郡で、現在の宮城県遠田郡湧谷町にあたる。 この地域には金産地らしく黄金山神社や黄金、金山といった地名や痕跡が今も残る。 


奈良期の天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺盧舎那仏像(大仏殿)の建立の詔を出している。
都(奈良)では東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金の不足が問題となっていた。 
そして、陸奥国小田郡から金が産出したという知らせを聞いて天皇は大変に喜び、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、和暦年号も西暦749年の天平時代から天平感宝(てんぴょうかんぽう;この後、764年まで天平〇宝という年号が続く)時代と改めるなど、国家的な慶事として大々的に祝われたという。

因みに、陸奥国から産出した金を大仏殿の建立に当てたのは黄金900両(約13s)とされ、大仏造立に要した金の量は、全部で10436両(約146s)と記録されている。
産金より1250年を経た現在も、わずかながら大仏には鍍金の痕跡が残されているという。

次回、国司歌人 「大伴家持




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