東北紀行 (15頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形

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 東北紀行(28)岩手 「大伴家持」,




涌谷町の黄金山神社境内に立つ大伴家持の「万葉歌碑」




『 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 
               陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
 』
 
(東国の陸奥の山に黄金の花が咲いたおかげで、天皇の御代は益々栄えるだろう)


日本で始めて金を産出したのは宮城県涌谷町の黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。 
これが現在の国指定史跡の「黄金山神社」と「黄金山産金史跡」である。 
現在も、神社の側(そば)を流れる小川からは砂金を採取できるという。

この時の延暦元年(782年)、越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)として陸奥国府多賀城へと赴任している。(当時の陸奥守:国司は百済王・敬福)

陸奥按察使は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職で、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した地方官のことである。
家持は延暦4年(785年)、陸奥按察使持節・征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没している。



黄金が産出した頃、八世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていた。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策をすすめながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には官衙(かんが;役所)や守りの城柵などを置いて、地域の整備や「蝦夷(えみし)」と呼ばれた原地人の人々の教化(支配下政策)にあたっていた。

こうして、律令政府のすすめた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」としてしられる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのであるが、この時、朝廷(中央政府)による北進同化政策を、押し止めようとしたのが蝦夷の一族であった。

蝦夷(えみし)というのは農耕が導入される以前の日本人という説もあり、先住民族であるアイヌであるともいわれる。 
飛鳥時代(七世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
元より、東北の地は豊穣な大地に恵まれた聖域で、日本で初めて金が産出された土地でもあり、自然への畏敬と人と人との絆を大切にした暮らしを送っていた。 その生活は、毛皮や馬・鉄・金などの特産物の交易によって営まれていたといえる。

大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又和人の築いた柵を越えて襲撃を行っている。 
飛鳥期の658年には阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷を討ったという記録もある。

780年頃、蝦夷の最大の戦いは胆沢とその周辺で行われ、陸奥国の国衙である多賀城を一時陥落させている。 
この時の指導者がアテルイという名が伝わっている。  

平安初期、桓武天皇が京都へ都を移してからは、朝廷側が大軍をしきいて遠征し、この時の征夷大将軍が「坂上田村麻呂」であった。

次回、征夷大将軍・「坂上田村麻呂




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 東北紀行(29)岩手 「坂上田村麻呂」  ,


中国風の政治を目指した桓武天皇は平安京を造営する。 
その平安京の鬼門の方向に異国の野蛮な民・「蝦夷」が存在することは耐え難かった。 即位後、早速、蝦夷の制圧を政策にかかげた。 
ところが、蝦夷にアテルイという英雄があらわれた。

アテルイは蝦夷の族長たちをまとめ、北上川(岩手県)の支流、衣川での戦いで、わずか1500人ほどの軍勢ながら、桓武天皇の派遣軍を打ち破る。
その3年後、今度は坂上田村麻呂が副将を務める10万人以上もの第2次蝦夷制圧軍がやってきた。 ところがアテルイ達はこれをもはね返して、北上川から北の独立を守った。

坂上田村麻呂は新たな征夷大将軍の位を与えられ、801年からの第3次蝦夷制圧を指揮することになった。 
田村麻呂は、兵力で押しても蝦夷はぜったい平定されないと考え、そこで蝦夷の文化と自立性を認め、蝦夷の族長に対する懐柔工作を展開する。
これによってアテルイの連合組織は分断され、弱体化してしまい、アテルイは盟友のモレとともに田村麻呂に降服することになる。


この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を造営し、150年にわたる陸奥北半の経営拠点とした。 
これによって胆沢地方をはじめとするこの地方は中央集権下に組み入れられ、律令体制の下に統治されることになる。 以降、胆沢郡が新たに設置され江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と合わせて「奥六郡」と称された。
田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生むことになる。 
即ち、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。


一方、陸奥按察使である坂上田村麻呂にはもう一つの使命があった。
奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらは主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであった。

坂上田村麻呂将軍は、武装した「稲作キャンペーン集団」ともいうべき任務をも兼ねて、弥生の文化を広めることにも重点をおいた。
彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては珍しく、いつのまにか蝦夷の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。
因みに、坂上田村麻呂が大軍を派遣した際の拠点を一旦、陸奥国多賀城(宮城県多賀城市)に置いている。 
田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという。 これが今の松島・五大堂である。


田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢・高祖の末裔で、3世紀頃一族を率いて日本列島に渡来した)を祖とすると伝わる。 
坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 

この役職は田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の王政復古の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。

次回、「田村麻呂の墓地





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