東北紀行 (18頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史敵文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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 東北紀行(34)岩手 「南部氏と盛岡藩」  ,




 盛岡城本丸と二の丸間の空堀に架かる赤橋



 盛岡城二の丸に築かれた草生す高石垣



時は下って戦国期、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。 
更に、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。 
石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。


戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。 
浅野長吉(ながよし:後の長政)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。 
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。



JR盛岡駅は、珍しく北上川と西側山地より流れ来る雫石川の合流点に設えてある。 
もし、ここにお城を築いておれば地勢的にの軍事上理想的のようにも思えるところである。  
実際の盛岡城は、駅前正面の不来方橋を渡った先、凡そ1km足らずのところにあり、無論、今は城郭は無く周囲を石垣や石の柵で囲ってある城址のみで、城内は岩手公園、愛称「盛岡城跡公園」として整備されている。

「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡藩主)南部信直は、盛岡城をはじめ、城を中心とした城下町の建設を始め、概ね、現在の盛岡の街並みが出来上がっている。
盛岡城は会津若松の鶴ヶ城、白河の小峰城と並び東北三名城と呼ばれていたようで、特に城壁周辺は土塁や高い石垣が多用され、其の美しさは東北の城の中では異例ともいえたらしく、城郭がなくなった今でも城垣などの威容を感じることができる。

現在の盛岡城は本丸、二の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く国指定史跡に指定されていて、又、日本100名城に選定されている。
当時は盛岡のことを不来方(こずかた)と言っていたらしく、お城の名前も不来方城と呼んでいたが、2代目・南部利直が名称を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改めたといわれる。 従って、正しい呼称は南部氏の領する南部藩の盛岡城ということになる。


江戸も末期の1817年には、従来の南部藩の名称を藩主の居住する土地の名を取って盛岡藩と改められ、この時期になって盛岡藩の盛岡城ということになる。
幕末から明治維新に到って藩籍奉還が許されると、南部家は南部利恭が跡目を相続し盛岡藩知事に任命されている。 
鎌倉期、南部光行が甲斐の領国から陸奥国に到って、其の後、南部利恭を迎えるまで実に800年の歳月、南部家41代を数えることになる。


岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか  』とも述べている。

彼の著書に『炎立つ』という作品がある。
平安時代前期の朝廷と東北地方の関わりから、物語は平安末期から鎌倉時代の初期の頃の奥州を舞台にした戦乱模様を描いている。 前九年の役、後三年の役の奥州藤原氏の開祖とも言える藤原経清の生涯から、初代・藤原清衡が奥州の覇者となり、更に第三代・藤原秀衡と第四代・藤原泰衡の時代における藤原氏の栄華の時代から源氏台頭による頼朝、義経ら奥州藤原氏滅亡へと到る過程を詳細に物語っている。
尚、この作品は1993年から1994年にかけて放送されたNHK大河ドラマにもなっている。

次回、 花巻 「宮沢賢治記念館



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 東北紀行(35)花巻 「宮沢賢治記念館」 
  、


 宮沢賢治記念館の入口



 宮沢賢治記念館の洒落た玄関



花巻へ到った。 ICは花巻空港である。 
先ず、最初の訪問先である「宮沢賢治記念館」に向かった。
賑やかな国道4号線から283号線へ回って、10分ほどで到着した。
花巻平野の中の丘陵地の高台、緑豊かな林の中に、モダンな記念館の建物があった。

展示室には宮沢賢治ならではの広範囲、多岐にわたって展示されている。
文学者、作家としての作品の他、自然科学、農村環境、音楽芸術など、特に、文学作品としての作品や出版物、蔵書の多さにびっくりする。 詩集、童話集、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品があり、これらの大多数の作品は、死の直後から主に「草野心平」(親交のあった友人、先輩)の尽力により多数の作品が刊行されたという。
尚、展示室の外部テラスからのどかな風景が望まれて、中央に北上川の清流が一服の絵のようであった。



 記念館より望める北上川と町並み


展示品は画家としての作品、東北の鉱山技師時代(石灰石工場)の掘り出した鉱石の標本、地質図、又、音楽にも才能があったらしく愛用した「チェロとバイオリン」、農学校(花巻農学校)で経験した農事に関するもの、宗教(法華経)に関するもの等、多岐多彩にわたっている。




 賢治が音楽に興味を持ったとされる「バイオリン


宮沢賢治の作品、記念品を展示する記念館の主唱者も、「宮沢賢治の深慮、思想と、詩や童話、教育や農業の事など、彼への理解は計り知れなく容易ではない」としている。
又、草野心平のいう賢治に関して『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である。 』と評している。 

次回、宮沢賢治を世におくった、小生の大先輩でもある「草野心平」の紹介。




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