東北紀行 (2
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史的文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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 東北紀行(2)いわき湯本 「最近の霊墓事情」  ,


墓地、墓標といえば、しばしば寺院、霊園などの広告に永代供養を謳うものが多い。 
だが、「永代」という言葉の使用によっては誤解やトラブルが多いらしい。 実際には10回忌、30回忌や50回忌までといった内規制限がある場合が多く注意が必要ともいわれる。 又、霊園の倒産、寺院の廃寺などによりこの「永代」も保証される訳ではもちろんない。
元来が永代供養というのが、江戸時代に檀家の減少を補う目的で僧侶が発案した商業手法であり、本来は毎月の命日に小額ずつ受け取っていたお布施をまとめて集金する当時の新システムなのであった。
現在の永代供養もその名残であるが、商品である以上、言語表現の誤認防止や費用の表示の透明化など早急な法の整備が望まれているという。

尚、墓苑、墳墓、墓石は遺体や遺骨を埋葬する場所は「築く」といい、その位置や故人の名を刻んだ墓石や塔は「建てる」という。
これを建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、ほとんどが「建之」の字を当てられる。 何れにしても、墓地は生前を明かす、故人となった記念の碑でもある。

日本では、墓前の法要や年中行事になっているお彼岸やお盆といった風習があり、周回の法要や時の春秋の中日を境に墓参して霊を祀ったり、「霊が先祖帰りして子孫と交流する」といった行事が古来から存在する。
特に、春分の日・秋分の日がそれぞれ国民の祝日となっているように、日本独自の仏教行事であり、「国民の休日に関する法律」には、「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」とされ、本来一家揃ってお墓参りをすることが行事の一つとなっている。
この祭り事を現代人は国民の休日は忘れないが、これら行事についてはつい忘れがちか、故意に葬り去ってしまう傾向があるようだ、大事にしたいものである。

何れにしてもお墓参りをする機会があり、それを実行することは個人やご先祖を懐かしみ、亡き人の徳を追憶し、冥福を祈ることである。(追善供養) そして、合わせて「己の功徳を積む」ことにもなる。 
それは仏教界の教えばかりではない。
日本人として霊の証しとなる墓碑を持ち、定期的にその地へ訪れ、霊を祀る心だけは失いたくないのである。

次回、白鳥山・龍勝寺



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東北紀行(3)いわき湯本 「白鳥山・龍勝寺」  、





我が家の龍勝寺墓地と阿弥陀堂


序ながら、わが菩提寺・龍勝寺についてチョッと述べてみよう。
いかにも田舎の風情漂う静観な山間に、境内・寺院が在る。 寺院は当地区、旧湯長谷藩の菩提寺でもあったらしい。
「龍勝寺」と同系の寺院で、同地区内の藤原町に「建徳寺」があり、何れも臨済宗の狭義をもち、大本山は京都の妙心寺に置いている。 
臨済宗」(宗祖・栄西)とは禅宗の一派で同系に「曹洞宗」(宗祖・道元)があるが、特に、鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになったという。
この二つ宗派には広がり方に特徴があるといい、曹洞宗が地方豪族や一般民衆に中心に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権や武士に支持され、政治・文化に重んじられた。
両宗派とも平安末期から鎌倉期に始まり鎌倉、室町に絶頂期を迎えるが一時衰退し、その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

禅宗とは、一般に座禅を組んで悟りを開くといわれるように、実践的宗教観に裏打ちされたものという。 教義の説明はいくらでも可能であるが、実践がなければ机上の空論という教えだ。
実践的というのは、例えば詩歌や絵画を始めとした芸術的な表現の上にある「悟り」や、芸術以外にも茶の湯や生け花を始めとした立ち居、振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、「悟り」の世界を味わうという手段も生まれているとされる。  つまり、この「悟り」こそ武士道に通じるものとされ、武士の信仰対象として臨済宗が重宝がられたという。 
京の妙心寺各派の寺院もそうであるが、日本でも最初に興ったとされる武士の府である鎌倉には、ご存知、建長寺(建長寺派)や円覚寺(円覚寺派)といった大寺院に代表される鎌倉五山に禅宗文化の華が開いた。


前置きはさておき・・! 、
しかしながら、我が家の菩提寺・妙心寺派の龍勝寺を檀那寺に選んでいるのは臨済宗を特別信仰しているのではなかった。(・・と思われる)それは江戸期に発布された「寺請制度」(檀家制度ともいう)によるものと推察される。

「寺請制度」とは、江戸初期の頃の徳川幕府の施策であり、当初はキリスト教禁制を徹底させる目的で、人々を寺院に帰属させ、証明させた制度であった。 従って、発令された後は、必ずどこかの寺院の檀家に属さなければならず、葬式も仏式を強制させられた。
寺院では現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」が作成され、併せて出生・死亡・旅行・移転・婚姻・奉公などの今で云う戸籍届けや変更も義務付けられた。 つまり、これら個人情報を寺院が管理し、生活をも監視するシステムであった。
これらによって各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院には一定の信徒と収入を保証される形となった。

しかしながら一方では、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教示を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団(未だ神仏習合の時代)が幕府の統治体制の一翼を担うこととなる。 僧侶を通じた民衆管理が、法制化され事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなってしまったともいわれる。(現代で言う官僚機構の腐敗)  この事が、明治維新時に極端なまでの「廃仏毀釈」を招く結果になったともいわれる。

しかし民衆は、「寺請制度」が先祖代々その家の宗教として受け継がれ、現代でもお葬式の約8割は仏式で行なっているという。 元々日本は神の国であり、本来は神式の葬式が仏式よりも多くなければおかしいが、現代でも仏式が圧倒的に多いのは江戸時代より供養は仏式という構図が出来上がってしまっているからだという。
つまり、我が家を含めて一般に、檀那寺と檀家の関係は信仰心には関係なく、或は、半強制的に入信させられて、その地域の寺院に帰属したのであった。


参道から山門をくぐった左手に「阿弥陀堂」が在り、ご本尊は珍しく胎内に納めた「腹ごもりの阿弥陀尊」という弥陀三尊が安置されている。 
阿弥陀堂の建立は明治42年といわれるので決して古くはないが、この小さな「胎内仏」そのものは作者、年代ともに定かではなく、かなり古いものだと推測されている。 
一般的に胎内仏は、亡くなった人の冥福を祈って仏像を造るとき、故人がいつも祈っていた小さい仏像をその中に納めるもので、平安時代以降にそれらの傾向がみられるという。 
彫像のほかに摺仏(すりぼとけ:仏・菩薩などの絵を、紙や布に木版刷したもの)、画仏を納めた例もあるらしい。

この寺の胎内仏には、「見ると目がつぶれる」という奇妙な言い伝えがあるとも言われる。
その訳は何となく判るような気もするが・・?。 
やはりというか、普段は堂内の安置所は閉ざされ、仏像を見ることはできない。

因みに、阿弥陀三尊とは阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする三尊形式である。 観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。 
なお、この場合の「左」「右」とは中尊から見た「左」「右」を指す。
お寺は臨済宗妙心寺派で、本山は「京都・妙心寺」である。

その菩提寺・「龍勝寺」からほんの2km足らず、5分ほどで湯本名物・「スパリゾートハワイアンズ」が丘陵地の一角に、華やかな別世界を形造っている。 これは後ほど
 
次回、「湯本温泉と常磐炭鉱



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