東北紀行 (21頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形

     詳細目次         
小生の旅と山旅  日本周遊紀行  世界遺産と鎌倉・湘南  日本周遊ブログ  日本周遊写真集T


【本文関連情報





 東北紀行(40)花巻 「新渡戸記念館」  ,



 


  

 花巻新渡戸記念館と展示品



次に、我らは「花巻・新渡戸記念館」に向かった。

宮沢賢治記念館からいったん国道283号線へ出る。 すぐ南の平穏な地、形よく造園された庭園の一角に新装な建物があった。
宮沢賢治記念館の合わせて2館共通の入館券で入場できた。
宮沢賢治記念館では多くの人で賑わって・・?いたが、こちらは小生夫婦の他に2〜3組でひっそりとしていたが。 

記念館は、新渡戸氏が二百年以上にわたって居住していた屋敷跡に建てられているという。 又、この地は新渡戸氏が江戸期の新田開発などで地域に大きく貢献したところでもある。
展示室には、「武士としての新渡戸氏」、「新渡戸氏と信仰」、「新渡戸氏と新田開発」を3本の柱として、新渡戸家の武家としての甲冑・刀・槍などの資料や、新渡戸家の信仰に関する御堂や関係品、更に新田開発の資料、映像などが展示されている。 
又、生涯を国際平和と教育に尽くした外交官・新渡戸稲造博士としても紹介展示されている。



新渡戸氏の家系  、

先ず、新渡戸氏には壮大なる家系史があった。
新渡戸氏は、房州・千葉氏の流れでそのルーツは約800年まえにさかのぼるという。
平安初期、奥州藤原氏の変において、源頼朝の命で千葉上総介常胤は陸前浜街道の一軍の大将として一族(下総、常陸)の武士を従えていた。
この時、下野国の「新渡戸」おいて常胤の孫が藤原軍の一隊を破り、その功により頼朝より下野国、新渡戸の郷一帯を賜ったとされる。
その後、新渡戸の郷に居城し、その地にちなんで姓を千葉から「新渡戸」と名乗ったという。


以来、戦国末期から江戸期の慶長年間、三十三代・新渡戸春治に至り、徳川の治世になって、岩手・南部公に仕えるようになって盛岡藩士となり、現在の花巻市高松安野に住み高松村を知行したという。
以降、230年の間、新渡戸家は花巻の地に居住し、花巻城士の文武両道にわたる指導、新田開発に情熱を傾けた。 

又、新渡戸家は信仰心も厚く、稲荷信仰、観音信仰を心の糧とし現在、新渡戸家屋敷跡に石碑や同家の氏神でもある稲荷神社も奉ってある。
そして、この地に記念館を創設、記念展示品の中に観音堂やその一部も展示されている。


稲造自身は、「盛岡」で生を受けている。
新渡戸家は代々、南部藩の藩士の家柄で、特に父は藩主・南部利剛(としひさ;盛岡藩の14代藩主)の用人(主君の用向きを伝達したり、庶務を司る役目)を勤めた新渡戸十次郎常訓であり、稲造はその三男として生まれる。
42代・常訓(つねのり)は本家・花巻城で生まれ、43代の長子が早世したため弟の稲造が44代となり新渡戸の本家を継いでいる。

尚、稲造の祖父である41代・常澄は、青森県十和田市三本木の開拓に精魂を傾け、現在十和田市の新渡戸家は分家として現在に継がれているという。 
十和田市にも「新渡戸記念館」がある。

次回、更に「稲造の人物像



.
【本文関連情報




 東北紀行(41)花巻 「新渡戸稲造の人物像」   、



  


 


「五千円札」の肖像画で有名な新渡戸稲造である・・!

稲造は9歳 で上京し、13歳で東京英語学校に学び その後、札幌に農学校(北海道大学)が設立されたのを聞いて、 同じ学校で学んでいた内村鑑三らと共に 第2期生として入学する。
それは、W・S・クラーク博士が、札幌農学校 の教え子らに、 " Boys, be ambitious!  "(青年よ、大志を抱け!) と言ったことに感化されたともいう。

札幌農学校を卒業した新渡戸先生は、 明治16年(1883年)、東京大学に入学する。
志は「私は太平洋の橋になりたい」 、 「西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる」 という思考の基に、天から与えられた使命として、外事事情に生涯を捧げる。

後に、アメリカやドイツに留学し、幅広い学問を修め、 当時の日本人としては珍しいほど、豊かな 国際性を身につけ、1919年には 豊かな国際性と学識のゆえに 、台湾総統の下の台湾殖産に携わり、遂に日本代表として国際連盟事務次長 に推薦されるに到る。


又、新渡戸氏は日本統治下にあった「台湾」の発展に尽力した一人であった。
明治中期、日本の台湾統治に当って日露戦争でも活躍した児玉源太郎は先ず、後藤新平(後の東京市 長)を民政長官に起用した。 
其の後、児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造であった。

新渡戸は半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。 そして品種改良、耕作方法、加工法の改善に取り組んだ。  
この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。 
併せて、農業政策や農業青年の教育に力を尽くし、特に、台湾での起業を後押しする目的で設立された東洋殖民専門学校の理事に就任、現在の拓殖大学の礎をつくった。



新渡戸氏は以上のような国際人である傍ら、同時に「武士道」を書いた愛国者でもあった。
その 代表的著書である『武士道』 を世界に紹介、日本精神を世界に紹介するために、本は英語でも書かれている。


昭和初期、軍部が台頭し軍国思想が勢いを 増してゆく 。
そんな時勢、新渡戸稲造は日本の前途を憂い 、 「我が国を滅ぼすものは 共産党と軍閥である」 と語り、批判を浴びながらも国内が軍勢の色濃くなるのを憂う。

昭和天皇は新渡戸氏を深く信頼し、幾度か宮中に呼ばれ てアメリカの情勢を尋ねる 。
氏は 天皇のご意向を受け 、日米戦争を回避する ためにアメリカに渡り 、日本の立場を訴える 。 
しかし、 アメリカからは理解されず 、その心境を歌に詠んでいる。


『 折らば折れ 折れし梅の枝 折れてこそ
                花に色香を いとど添うらん
 』


翌年(1933年)、 太平洋会議に出席するが帰路、病に倒れ 、バンクーバー市の 近くのビクトリアにおいて 、愛妻メアリーに看取られつつ71歳で死去する 。
新渡戸稲造農学者、農政家、法学者、教育家の顔を持ち、農学、法学、哲学の博士号を得ている。
尚、生誕の地である盛岡市と客死したビクトリア市は、新渡戸稲造が縁となって現在姉妹都市を結んでいるという。

次回、「花巻の三偉人




【本文関連情報




     詳細目次         
小生の旅と山旅  日本周遊紀行  世界遺産と鎌倉・湘南  日本周遊ブログ  日本周遊写真集T
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 石見銀山
【旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
九州旅行2008
東北紀行2010
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

古都鎌倉紀行
「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
北ア・槍−穂高(1968年)
上高地・明神(2008年)
南ア・北岳(1969年)
八ヶ岳(1966年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
谷川岳(1967年)
尾瀬紀行(1973年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
奥秩父・金峰山(1972年)
「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」




inserted by FC2 system