東北紀行 (7
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史的文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010


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 東北紀行(12)いわき湯本 「古代・大和の国と纒向遺跡」 


 
 纒向遺跡群の代表的古墳:「箸墓古墳」(国土省)


三輪山の神は本来、旧来の豪族たちの神々(大国主神・国造りの神など)であったが、大和朝廷以降は天皇家の神々を祀った。 このため大地主神であった「大国主神」は出雲へ追いやられるのである。 しかし、後に三輪の神(大和天皇家の神)も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 
移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。
三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされている。 
元より、三輪山は最大最高の神霊地(大国主神)なのであり、それが国内事情(政変)で反転したのが「大物主神」とされている。


ところで、最近の2011年1月付けの産経新聞によると・・、
『 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、「女王卑弥呼の宮殿跡」らしき遺跡が発見され、更に、この遺跡より大量のモモの種や各種遺物が見つかり、これらの遺物から判断するに、全て各地から食材や物が集まって神饌(神に供える飲食物)として供えられた遺跡物資である可能性が高いといわれる。 これによって纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことが明らかにされ、更に、この地が卑弥呼(ヒミコ)が在住した「邪馬台国」の最有力な候補地ではないか。 』、との報道があった。

更に、纒向遺跡の一端には、これも近頃ニュースになった箸墓古墳(はしはかこふん;宮内庁名は倭迹迹日百襲姫命・ヤマトトトヒモモソヒメノミコトの墓としている)も有り、この古墳は、この辺りでも最古級と考えられていて三世紀半ば過ぎの大型の前方後円墳で、建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓ではないかとする見方もある。 
因みに、卑弥呼は邪馬台国の女王とされ、その生涯年代は西暦175年頃? - 248年頃(在位188年頃 - 248年頃)とされている。 

元より桜井市周辺は、縄文時代から弥生時代のかけて土器の欠片(かけら)などが一般の野原や畑などでも掘り出されるなど歴史の深さと事実を窺わせる土地柄なのである。 
この地域は、神武天皇御陵(橿原神宮)や崇神天皇、景行天皇のものとされる大王陵など、弥生時代や古墳時代にみられる「前方後円墳」などの古墳が多く今日まで残されている。 そのことから周辺地域はヤマト王権(大和朝廷につながる王朝)の中心的な地域であったとされている。 それ以前には三輪王権(大和の豪族集団)とも言われるようである。

邪馬台国」の所在地については昔から近畿説と九州説があるが、近畿説を採用した場合、その根拠となるのが纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されている。
この纒向遺跡は、奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、既に都市計画がされていた痕跡と考えられる遺構が処々方々で認められ、水を得るための巨大な運河などの大土木工事なども行われていて、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目され、既に政治都市としての形が出来ていたともいわれる。 

又、祭祀用具を収めた穴が30数基や祭殿、祭祀用仮設建物などのも見受けられ、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されていることも確認できるという。 
所謂、この地方は3世紀からそれ以前には既に「卑弥呼」を中心とする中央集中の国家体制が出来つつあったか、はたまた既に出来上がっていたとする見方である。
「纒向遺跡」は、その大きさからも七世紀末の藤原宮にも匹敵する巨大な遺跡であり、これこそが「卑弥呼」以降の「大和朝廷」の発祥の地にほかならないともいわれる。

纒向遺跡には20数基の古墳が存在するという。
このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、これらの古墳を総称して「纒向古墳群」といっている。
近年の、この地区の考古学研究の専門家たちの発表によれば、纒向古墳群の出土物の調査等から建造時期は三世紀半ばと推定され、これは卑弥呼が活躍した時期と一致するとの見方で、「邪馬台国・近畿説」を支持する論者たちは意気盛んなのである。
「纒向遺跡」は三輪山の麓、桜井線の巻向駅の至近に存在している。


「大和朝廷」発祥の地とされる奈良盆地南東部に所在する大三輪社(三輪神社)は、大物主大神を祀り、三輪山を神体(神体山)として成立したのであった。 
大三輪社は現在でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみるという古神道(原始神道)の形態を残しているのである。
そして現在の三輪山山麓には、日本最古の神社といわれる大神神社をはじめ長谷寺、談山神社などの由緒ある社寺も数多く見られ、宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区となっている。

さて、チョッと脇道に反れたが、話を元に戻しましょう。

次回、 「徳一と藤原氏




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 東北紀行(13)いわき湯本 「徳一と藤原氏」   、


前回まで大和地方における長谷寺、三輪山、大和の国、そして大和朝廷の来歴を述べてきた

ここで、「藤原氏」が登場する・・!。
これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。 
香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心である。
藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 
この地、鹿島は中臣(藤原)氏の本流の地で、海人族であったとも言われる。
鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 
武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。

余談ながら奇縁として・・、
大和・三輪山の麓に「相撲神社」が鎮座している。
この神社は日本大相撲の発祥地とされていて、かっての大横綱の大鵬と柏戸がやって来て、土俵入りをしたこともあるという。
昔々、この地に力自慢・當麻蹶速(タイマノケハヤ)がいて、もっと強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。 早速、垂仁天皇は出雲の国の野見宿禰(ノミノスクネ)を探し出し、二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催されたという。
試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わったとされている。


藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。
大化の改新」以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。 その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
不比等は、大宝律令の選修に参加、養老律令を完成し、又、日本書紀の成立を主導し、平城京遷都に際して興福寺を建立するなど、今の「日本国」を創った人、日本という国家の礎を築いた人物として知られる。
その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。

徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、直接政治には関わらず、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として、宗教を礎とした文化的な面で活躍したと思われる。

石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 
つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、石城の地・「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていたともされる。
「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味で、現代語では「来るな」という意味だそうである。 古代、奈良期に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説もある。


九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であった。 道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。
仏教の普及が、古代からの信仰(主に自然信仰)と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。
藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城地方」であったのである。

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 
その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 
徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に「湯の岳」を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。

次回、いわき湯本の長谷寺




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