東北紀行 (31頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(60)角館 「青柳家」  ,




 青柳家の立看板の屋敷図



 青柳家・薬医門<


 青柳家展示品(元武家の様子が判る)




次に、石黒家の隣家に佇む「青柳家」を訪ねた。
更に、重装は薬医門を潜ると、屋敷の案内図が立っていた。 
屋敷内は一見するまでもなく、神社の境内のような鬱蒼とした大木が生い茂っている。
総敷地3000坪という巨大な御屋敷の中、母屋の他に武器蔵、青柳家ゆかりの古文書や絵画、

掛け軸などを展ずる「ミニ博物館」、郷士館、当時の武士の生活様式を伝える「道具蔵」、はては秋田の食文化を伝える食堂・「食彩館」やアンティーク逸品を展示する「ハイカラ館」といった建物が建つ。 

しかも庭園の中には小川が流れ、大元に神明水という清水が尽きることなく湧き出している。 
この小川は主家の裏山から数百年に亘って湧いているらしく、NHKのTV番組・「新日本紀行」でも放送されたという。


これらの建物群は、重要な古物である武具や古文書、史的遺品を収容するために後々に設えたものであるが、主家・母屋や医薬門は当時の姿をそのまま残されているもので、県の文化財にも指定されている。

特に医薬門は重厚なもので家の位や威信を表すものとされ、上級武士にしか許されない格調の高さは青柳家の誇りは勿論のこと、武家屋敷群の角館の象徴ともされているという。
これは藩への功績が認められた際、特別に作られたものであるとのこと。

又、主家は200年以上の歴史を保っているといわれ、寄棟萱葺き屋根は曲屋(かぎ形:直角に曲った平面をもつ民家)で、玄関、座敷の仕切り戸や欄間は武家の青柳家らしい独特の意匠を凝らしている。 
母屋、座敷は現存する角館の武家屋敷のなかで最も豪華だといわれる。
当家は、広大な屋敷と数多くの遺品の展示などで「角館の歴史村」とも言われているようだ。


青柳家は、元より戦国期から当主・佐竹義重に仕えていた。
佐竹 義重は戦国時代の常陸国の戦国大名で、常陸守護職家である佐竹氏第十八代当主であり、関東一の鉄砲隊を備えた別称・鬼義重、坂東太郎の異名を誇った。 
即ち、常陸・佐竹氏の全盛期を築き上げた人物で、経済力を築き、豊富な資金力を実現したという。

嫡男・義宣の時代、関ヶ原の戦いでは家臣の反対を押し切って西軍(三成方;中立という立場もある)寄りの立場を表明した。 
しかし、戦中の曖昧な態度を咎める名目で、常陸水戸54万石から出羽秋田(久保田藩)20万石へ減転封されることになる。

その後、義宣の弟・盛重(芦名家の跡取で芦名義勝と名乗る)に佐竹北家として「角館」を与え、その時、青柳家も盛重に随行、御徒組頭として60石(芦名家平均石高)が与えられている。

青柳家は廃嫡で芦名家が滅んだ後も佐竹家に仕え、更に新田開発や殖産を起こし度々藩、主君に御用金を献上、江戸中期には足軽組頭に昇格している。 
更に、幕末には150石を有して角館の資産家、名士となって歴史に名を残した。

1973年(昭和48年)県の史跡に指定され、平成元年、角館歴史資料館として公開されている。

次回、「岩崎家



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 東北紀行(61)角館 「岩橋家」  ,



 

 岩崎家薬医門っと御屋敷母屋(映画「たそがれ清兵衛」の撮影場所)




次に、南へ下って辻から東勝楽丁(町名)の岩橋家を訪ねる。
苔生した屋根(茅葺から木羽葺き)の薬医門をくぐると案内板が先ず教えてくれる。


岩橋家住宅は案内板によると・・、
『岩橋家は北関東の名門会津黒川城主芦名氏(鶴ヶ城;70万石)の重臣であった。天正17年(1589)芦名氏が伊達政宗に敗れ常陸の佐竹氏を頼り常州江戸崎城4万8千石を与えられ、岩橋家も芦名氏に随従して江戸崎に移った。関ヶ原戦後、慶長7年(1602)佐竹氏の出羽移封とともに芦名氏も出羽に下り角館城1万5千石を与えられた。岩橋家は一時江戸崎を立退き津軽氏に300石で仕官していたが、主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。芦名氏が承応2年(1653)3代にして断絶するに及んで、代わって角館を支配となった佐竹家に召抱え(66石)られ廃藩になるまで仕えた。この建物は江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺にかわったが、角館の中級武士の生活様式を今に伝えている』 とあった。

母屋前から前庭に通じる脇門からは屋敷内に入ると、秋景色をいろどる栗、赤松、山モミジなどの樹木が多く、なかでも樹齢300年とも推定されている柏の巨木は秋田県内でも非常に珍しいといわれている。

母屋は、来客用の主玄関と家族が出入りする脇玄関が設えてあり、屋内は江戸時代の武家屋敷の面影を残している。 
だが、八畳間続きの居間や各部屋は上級武士としては質素な構えのようにも感じられた。



岩橋家は案内板にも記されているように戦国期から以来、芦名氏の重心として仕えている。 元より、芦名家は相模国三浦郡から興り、源頼朝の平泉征伐(奥州藤原氏)の際に功名を成し、1189年(文治5年)に会津の地を与えられた家柄で、14世紀後半に会津に下った後、黒川城(後の若松鶴ヶ城)を拠点に治世に努め、16世紀・芦名盛氏の頃には70万石の大大名として米沢・伊達家や常陸・佐竹家と並び称されるほどの力を有していた。

しかし、天正年間に伊達政宗との合戦(合戦名・・・)で大敗し、会津の戦国大名・芦名氏は滅亡して、実家縁者でもある佐竹家に戻ることになり、佐竹家の下、常陸・江戸崎城主となる。 (足名氏と江戸崎藩の詳細)

佐竹氏の与力家臣となっていた芦名氏(佐竹盛重、後に芦名と改名)は、関ヶ原の戦いでは兄・佐竹義宣と行動を共にしたが苦敗をなめ、除封されて義宣と共に出羽国(秋田県)に移ることになる。 

その翌年(1603)藩主・義宣は一族にそれぞれ城を与え、弟・盛重は角館城代として一万五千石(芦名家譜には一万六千石とある)を領し、名前を芦名義勝と改めている。
岩橋家は主家・芦名氏の浮沈の運命に翻弄されながら、忠臣として共に会津から常陸へ、そして秋田本藩(久保田藩)から角館支藩へと苦闘敗戦を伴いながら、芦名氏とともに転々と行動を共にしているのである。


因みに、藩主・義勝の2代目後継者・盛俊(義勝の庶子)は20歳で早世していたため、往年の会津・芦名家の再興の夢を失った家臣の落胆は大きく、特に、当主・岩橋又右衛門は盛俊の死の翌日に殉死したとされる。
更に、盛俊の没後、嫡子・千鶴丸(せんつるまる)が一才で後を継ぐが、三才で夭逝、全くの予期せぬ不運が続き、芦名家は1653年(承応2年)断絶したのである。

家臣は当然のことながら大きく減封処分され、左遷、或いは他家への出仕という道をとらされ路頭に迷った家臣団であるが、岩橋家は幸いその後の佐竹北家に慰留されている。
家臣・岩橋又右衛門の墓は盛俊と共に芦名家菩提寺・天寧寺に建つ。

江戸期の岩橋家は石高86石を有し、角館では上級武士の位置にあったという。


次回、「河原田家と小田野家




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