東北紀行 (45頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(87)山形 「私事の山形」



そして、山形市である。
山形」は小生の実家、というより生母の故郷であった。
其の本宅は山形市よりの西部地区、朝日山系の北の麓、朝日町の三中という山の中である。 

今は車の時代なので然したる苦労も無さそうであるが、小生が幼少の頃の記憶である戦中から戦後にかけては、実に田舎中の田舎、山中深く入り込んだところにあった。
当時、山形駅から左沢(あてらざわ)線に乗り換え、終着の左沢駅からバスで1時間ほどかかり、更に、徒歩で少1時間ぐらいは掛かったと記憶している。


私事であるが・・・、
親父が満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任したのは昭和12年の頃であろうか・・?、その後、小生は昭和14年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。 

満鉄職員ということで、比較的安楽で普通以上の生活をしてたらしく、中国人やロシア人を家へ招いては茶会や麻雀などを楽しんでいたようである。

小生が物心ついた小学生入学当初、この頃から戦争の影響が次第に生活の中にも入り込むようになり、灯火管制など電灯に黒幕を被せて部屋を暗くして静かにしていたり、非常時の場合に備えて非常用具や防空頭巾などが手元に有ったのを覚えている。 
そして、この時期に不幸にも実母と妹を病(結核)で亡くしているのである。 


警戒警報や空襲警報が盛んに発令されるようになって、当時、鉄筋コンクリートの三階建ての官舎に住んでいた我々も、遂に地下の防空施設に避難するようになった。
それから後、間もなく日本は終戦を迎えることになる。 

だが、ある日突然、予想もしないことがおこった。 親父が「ソ連が攻めてきたらしい・・!」といって官舎の人全員に呼びかけ、取るものも取り合えず駅まで誘導し、我らも防空頭巾を被って貨物列車に乗り込んだ。 

後は、奉天駅から釜山(ふざん・プーサン)へ来たことは覚えているが、途中の長い道程(みちのり)は記憶が無い。
 

親父が満鉄職員ということもあり、奉天から朝鮮半島を経て釜山へは重要幹線ということもあって、比較的容易に来れたようである。 
因みに、親父の満鉄での業務は、旅客関係ではなく保安・保線関係の仕事であったため、比較的早めに解放されたらしい。 

奉天〜釜山は、概ね東京から下関の距離で凡そ1100kmある。
釜山からは貨物船に乗せられて(載せられて)舞鶴に向かったのであるが、船中の居場所は船底の貨物室で、人々はごった返し、筵(むしろ)の上に居たのを記憶している。 
小生、6歳の時分であった・・!!。


因みに、満州とは・・、
大陸、特に中国東北部を、戦中は通称・「満州」(満州国・日本の傀儡政権国家ともいわれる)と呼んでいた。
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に日本が占領し、翌1932年から1945年までは日本による傀儡国家(かいらいこっか)・満州国が建国された。 

満州国は、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ:映画、「ラストエンペラー」で知られる)が13年の間にわたって元首としていたが、1945年8月、第2次世界大戦終結直後にソ連軍が満州に侵攻、日本の敗戦と同時に消滅している。 
尚、翌年の1946年には、ソ連は占領した満州地域は中華民国(現、中国)に外満州を除いて返還している。


満州国建国当時、南満州鉄道(満鉄)は満州国が成立すると、日本から朝鮮半島、中国大陸へ向かう需要が急増していた。 
東京、大阪方面からは主要幹線である東海道本線、山陽本線が其々の地方を経由しながら下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山へ、更にそこから朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)へと乗り継ぐルートが最速であり、これを弾丸列車と称していた。 
中国大陸・満州へは、奉天から新京(現長春)、大連、旅順などを結んでいた。


さて、山形のことであるが・・、
終戦後の本土帰還から直ぐに山形の母の実家を訪ねているが、其の後も用事で2,3度尋ねたことを記憶している。 
朝早く福島のいわき湯本を出発、凡そ1日がかりで到着するという遠方であった。 
とにかく山の中で、生活は養蚕や家畜を飼って支えていたようである。 

それ以来、両親が亡くなるまでご無沙汰してしまったが、物心つき、山形の観光を兼ねて車でお邪魔したのを、懐かしく思い起こされるのである。 

次回、「戦国武将・最上義光



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 東北紀行(88)山形 「戦国武将・最上義光」   、


 
 霞城跡(山形城址)と最上義光像



山形周辺は観光のメッカで、北の出羽三山から西の面白山高原から蔵王連峰、それに山寺の立石寺など全国的にも名が知られている。 

そして市内では戦国武将・最上義光に縁のある東北一の規模とされる木造建造物の専称寺や最上義光記念館、大正時代の洋風建築で旧県庁舎の文翔館、旧済生館本館など、そして何より山形の歴史を彩った霞城跡(山形城址)などが見所であろう。

霞城跡は山形駅のすぐ北側、奥羽本線の線路際にお城の大きさは約70万坪という
広大な敷地を抱き、現在は「霞城公園」として市民に親しまれている。
御城は戦国期の最上義光の時代に造られたという。 


元々、山形城と呼ばれていたが、別名「霞城」と呼ばれるようになった理由は、関ヶ原の合戦の頃、奥羽の関が原といわれた上杉・最上氏の戦いにおいて、直江兼続(上杉軍)が麓からお城を十日間見てたが霞がかかって何も見えなかったことから付けれたとも云われる。


山形城は、かっては本丸・二の丸・三の丸と城の主要な機能が配置されていたが、今はその殆んどが失われていて跡地を残すのみとなっている。 
現在、設計資料などを基に復元や復元する計画が実行されつつあると言うが・・!。



最上義光は最盛期には、東北では伊達政宗に並ぶ名将とされている。 
ただ、戦国武将としては余りに有名な伊達政宗の影に隠れてはいるが、実は、正宗は母方の関係で義光の甥にあたり、つまり伊達政宗の伯父がこの最上義光であることから、両者は親戚関係でもある。

関ヶ原の戦いに先立って、米沢城の上杉景勝の命を受けて直江兼続を最上義光の長谷堂城(山形県山形市大字長谷堂)に侵攻させるが、義光はこれを迎え撃ち、関ヶ原の戦いで西軍が敗退すると、今度は退却する直江兼続を追撃し戦功を上げている。
この戦果により最上家は出羽57万石の大領大名になり、本城としての山形城の改築、整備を開始している。


義光は、平城では日本最大級の広さを持つ山形城の拡張や城下町の建設、新田開発や社寺仏閣の造営など多くの実績を上げ、実石高は100万石とも200万石とも言われたとする。 
無論、義光が行った領国経営は、主城をもつ中心地の山形の町づくりをも積極的に行い、これが現在の山形市街地の基礎となっている。

しかし義光が死去すると家督争いが激化し、元和八年(1622)義光の孫・義俊の代に内紛理由で所領を没収され、近江に移されて一万石となりすっかり寂れてしまった。 
そして、江戸期には戦国の東北の覇者・最上家は衰退、消滅してしまうのである。
最上家は、家督相続やお家騒動に厳しい、徳川政権の犠牲になったとされる見方もある。

次回、「蔵王




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