東北紀行 (17頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(32)岩手 「前九年・後三年の役と藤原四代」  ,



平安後期の1051年が「前九年の役」で、1083年が「後三年の役」とされる。
東北地方の北上川流域で勢力をふるっていた豪族、安倍氏が1051年に反乱を起こすと、朝廷から軍が派遣されるが、ことごとく敗れてしまう。 
朝廷は更に源頼義とその子・義家を派遣して討伐へ向かう。

この時、江刺の豊田館に住んでいた藤原経清が、安部氏と姻戚関係もあり共に戦うことになる。 
安倍、藤原氏は頑強に抵抗するが、出羽の豪族・清原氏が源頼義方を応援したため、遂に「厨川」(盛岡市の北)にて鎮圧、大敗を喫し、安倍貞任、藤原経清共に敗死する。
  

藤原 経清は陸奥国亘理に縄張りをもつ豪族である。 
平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷の直流とされ、溯れば中央(奈良・大和の朝廷)における藤原四家の一つ藤原北家の後裔とされる。

経清亡き後、内室は嫡男を連れて宿敵であった出羽清原家に嫁ぐことになるが、この嫡子こそ後の藤原清衡で奥州藤原四代の初代となる。
安部氏滅亡後、暫くは出羽清原家が中央から認められていて、ほぼ東北全体の実質的支配者であった。これをまでを前九年の役という。



この後1083年頃、安倍氏の後を受けて東北地方をおさめていた清原氏は、今度は一族の間で争いを起こす。 
最終的に前九年の役で活躍したが源義家が、金沢柵(秋田県横手市)で清原氏一族の藤原清衡をたすけて争いを終結させる。 これを「後三年の役」という。

この両戦に都から出陣したの源頼義、源義家によって源氏の名を世に知らしめることになり、そして義家から五代目に源頼朝、義経、更には木曾義仲を世に出させることになる。 だが、現時点では中央では平家が台頭しはじめ、朝廷の実権は藤原氏が握っていた。 



さて、藤原清衡は、母が清原氏に嫁いでいるため、本来は清原清衡である。 
だが、元服の後か、或は平泉に居館を設けてからかは本来の父の姓である「藤原清衡」と名乗った。
清衡は、1088年から築かれたご存知奥州藤原四代の祖であり、まさに100年間の基礎を築いた力量ある人物であった。 
平泉では自らが墓稜となる「金色堂」を造営している。

偉大なる初代清衡の後を継いだのは基衡であった、
基衡」は内紛を起こすなど気荒なところもあったが、平泉に毛越寺を創建したり、都市平泉を整備したりして二代目らしい足跡を残している。

三代目はご存知「秀衡」である。 
平氏の清盛や宗盛も頼ったとされ、源氏の頼朝は恐れをなしていたというほどの名君であった。 
この頃、源義経(16歳)が平泉に下り、秀衡の庇護されるようになる。 
その6年後(1180年)義経の兄・源頼朝が伊豆で挙兵、富士川の合戦では平氏を破っている。併せるように義経が秀衡の武将として平泉より出陣している。 
その後、義経は壇ノ浦で平家を滅亡させるなど華々しい活躍をするが何故か兄・頼朝に嫌われ、結局、秀衡の元へ下る。

四代目「泰衡」に至るが、鎌倉の頼朝に対しては始終弱腰であった。 
そして遂に頼朝に屈し、泰衡は従兵数百騎で義経の起居していた「衣川館」を襲撃し、義経を自害へと追いやった。
泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の和平を図ったが鎌倉側は承知せず、頼朝自ら出陣し、大軍を持って奥州追討に向かった。


1189年には平泉は炎上し、泰衡は比内郡において老臣・河田次郎に殺され、奥州・平泉藤原氏は滅びた。
源頼朝は、奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げた甲斐の「南部光行」に、甲斐国南部牧(南部町)から陸奥国糠部郡などを与える。 
光行は奥州の領地に三戸城(青森県三戸郡三戸町)を築城した。

次回、「南部氏と“戸“




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 東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」  .




三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に
南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。




地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。


この地方は藤原時代から大いにを育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。



甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。



序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。 
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。 
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。 
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。

津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。 

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。

次回、南部氏と盛岡藩」  、




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