東北紀行 (16頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
福島県⇒宮城⇒岩手県秋田県⇒山形


祝い・・!!、東北・平泉地方の歴史敵文化が2011年6月、
「世界文化遺産」に登録されました。


東北紀行2010



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 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」  ,




手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の赤○印が清水寺(Asahi・comより)



【追記】  

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという。

京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されていて、内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏(藤原氏の本流)の根拠地である点から関連した高貴な一族の誰かと推定されていた。

清水寺縁起」には田村麻呂の墓地に関する記載があり、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。 
その後の研究によって西野山古墓は田村麻呂自身の墓であることが特定されたという。
尚、清水寺の創建は平安初期に「延鎮上人」(奈良から平安前期の法相宗の高僧)により開祖 坂上田村麻呂の堂宇建立により創建されている。 
清水寺のある音羽山は、元々は延鎮上人の観音修行の地であった。 そこへ田村麻呂が山荘を建造したが、田村麻呂の夫人の発願によって堂宇として寄進し、延鎮上人によって開山したものとされている。(北観音寺⇒清水寺


田村麻呂は平安初期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。

西野山古墓
は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。

この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。

次回、岩手 「奥州の不穏




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 東北紀行(31)岩手 「奥州の不穏」  ,



坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定し、朝廷の下、兵役や貢税などの取り決めをしてから凡そ100年の間、陸奥国、奥州の地には多少の小競り合いはあったものの動乱、大乱などは無かったようである。
しかし、平安後期になってくると、俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷)の長は地域同士の小競り合いの中、各地で柵を巡らし、戦闘を整え、中央政府に逆らって私腹を肥やし、果ては貢税などの滞納、拒否を行うようになる。

これら俘囚の長に代表されるのが、奥六郡(現在の奥州市から盛岡市にかけて)を支配する安倍氏(安倍貞任)や出羽・仙北地方の棟梁・清原氏(清原真衡)であった。 
特に、安倍氏は広大な地域に影響力を発揮していた。 そして権力、兵力が増大するに従い、陸奥国の奥六郡(北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
更に、安倍氏は朝廷への取り決めを破り、貢租(租税)などの納付を怠る状態になった。 阿倍氏のこれらの施策は、朝廷に対する謀反であり、反逆とみされた。
これにより「前九年の役、後三年の役」が勃発することになる。


平安後期の東北北部は、再び戦乱の時代を到来することになるが、先ず、その当事者は安倍氏に対して途中からであるが清原氏が登場する。 そして、戦役の結果として清原氏が安倍氏を滅ぼすことになる。

安部氏は奥六郡を支配する俘囚の長であり、その出実については奥州に下った中央豪族である安倍氏が任地で子孫を残したとの説、又、飛鳥時代の7世紀中頃、日本海側を北に航海して蝦夷を服属させたた阿倍比羅夫(あべのひらふ)につながる系図だとも言われ、それに、元々、東北に根ざした住人であるといった説があるが定かではないらしい。 何にしてもこの戦役中、中心となるのは安倍貞任(あべさだとう)という人物である。

一方、清原氏はやはり俘囚の長を自称している。
清原氏は、東北地方で栄えた豪族で、仙北三郡を支配した出羽清原氏である。(現在の秋田県と山形北部地域)
清原氏は天武天皇の血筋といわれ、その皇子である「日本書紀」を表した舎人親王の系統とされている。
又、同系に「枕の草子」を書いた清少納言がいるというが、これも定説でない。
因みに、俘囚とは血筋とは関係なしに、東北地方に元々住んで居た人、或は移住させられた人、土着した人全てを俘囚と呼ばれている。 その中から大和朝廷の権力によって選出された有力者を俘囚の長と呼んだ。

奥州不穏の中、朝廷は河内源氏の「源頼義」を陸奥守として、事態の収拾を図るため陸奥に赴任することになる。


次回、前九年・後三年の役




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