東北紀行 (49頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(95)蔵王 「刈田嶺神社と蔵王権現」 



 
 「お釜」から刈田岳山頂に向かう「遊歩道」


 
 刈田山頂


 
 刈田山頂に鎮座する「刈田嶺神社(奥宮)」


 
 麓の遠刈田温泉にある「里宮・本殿」



さて、再び馬の背の稜線に戻る。
左手に見通しの良い草原状の大地の向こうに程良い遊歩道が延びていて、その先の三角ばった頂上にお社が鎮座している。 
 三角のお山は刈田岳(標高 1758m)で、その頂上にある小社は「刈田嶺神社」という。 こちらは頂上にあるのでで「奥宮」ともいう。 

尚、蔵王連峰の東麓に位置する遠刈田温泉の同名社を「里宮」と言う。 
御神体は、夏季には山頂の「奥宮」に、冬季には麓の「里宮」にと、両宮の間を季節ごとに遷座している。


御祭神は、天之水分神 (アメノミクマリノカミ)と国之水分神( クニノミクマリノカミ)で、二神は姉妹神で、何れも水を司る神である。
天之水神は、山頂の水の分配をつかさどり、国之水神は、地上の水の分配をつかさどる神とされ、互一対神をなしている。 
尚、江戸時代までは「藏王権現」と称し、蔵王連峰の“蔵王”は、蔵王権現に由来している。

神社由緒には、『 開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇2代緩靖天皇を奉祀せしこと地方伝説等に徴しても明なり。その後文武天皇の御宇仏教の余波として彼の修験道なるもの現れ、其の一人として有名なる役の小角天武天皇の白鳳8年大和国吉野山に鎮座せる蔵王権現即ち天之水分、国之水分二柱の御神霊を不忘山に奉還し山名をも蔵王山と改むるに至れり。』 とある。


さて、この蔵王権現(ざおうごんげん)とは、日本の独自仏教形態をもつ信仰対象とされ、インドに起源を持たない日本独自の仏とされる。 
本山をご存知、日本一の桜の名所でもある奈良県吉野町の「金峯山寺」、本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。 


権現」とは、仏が化身して神として現れること、その現れた権(かり)の姿をいう。 
元より、神は姿は無いもので、有ったとしても御神体とされる霊神か自然神であった。 
ところが古代、仏教が輸入された結果、日本では様々な神仏習合の現象が起こり、カミとホトケが混ざり合って「仏神」という仏体(仏像)となって姿を現したもの。


今から1300年前、修験道の開祖とされる「役の行者」(えんのぎょうじゃ;役 小角;飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、実在の人物だが人物像は後の伝説によるところが大きい。修験道の開祖とされている)により奈良・大峯山系の上ヶ岳において祈り出された我が国独特の根本仏が蔵王権現とされ、お堂を吉野山においた。
その後、権現信仰は全国各地に流布されることになる。


古来より名峰とされた各地の山々もそうであるが、日本百名山の蔵王連峰も古くから「不忘山」と称して自然崇拝対象の神の山であった。
飛鳥期の末の天武天皇の御世(680年頃)、不忘山に役小角という行者が吉野の金峯山寺・蔵王堂から金剛蔵王大権現を勧請して「権現社」が建立され、刈田岳山頂に祀ったとされる。 
後の刈田嶺神社(奥宮)および刈田嶺神社(里宮)であった。 
これ以降、修験道の修行の場となった奥羽山脈の当地を「蔵王山」と呼ばれるようになった。

平安時代中頃には空海の両部神道(空海が開いた真言密教の立場から解釈された神仏習合思想)を唱える修験者が多数修行するようになったという。


役の行者(えんのぎょうじゃ)が、大峯山中で地上で苦しむ人達を救う神を顕現(けんげん;はっきりと現れること)するため一心に経を唱えていていると最初弁財天が現れたらしい。
しかし、役行者はこれは破邪の神としては優しすぎると考え、もっと強い仏が欲しいと更に祈ることになる。 

次に現れたのは地蔵菩薩であったが、地蔵は力の強い菩薩で基本的には慈悲の仏なので、
役行者はもっと“荒々しい仏”が欲しいと祈る。 
すると、突然凄まじい雷とともに、憤怒の形相の仏が炎の中から現れる。
これが「蔵王権現」であった。

次回、「金剛蔵王像と神仏分離



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 東北紀行(96)蔵王 「金剛蔵王像と神仏分離」 




 春の吉野山の金峯山寺・蔵王堂と立像の形相(wiki)



現在、吉野山の金峯山寺・蔵王堂に祀ってあるご本尊は「金剛蔵王権現立像三体」といって、何れも激しい憤怒の形相をしている。 
青黒い肌に逆立つ怒髪、燃え盛る火炎を背負って右手右足を挙げ、天空を睨み付けている。 

青黒い色は邪気を払う仏の慈悲、赤い火焔は偉大なる知恵とされる。 
蔵王権現は神も仏も全ての信教を含めた具現の象徴とされている。
この三体を両の手あわせて真剣に拝むと、邪気が払われ、幸運が巡るとされる。


金峯山寺・蔵王堂(国宝)の建物は、木造の建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模といわれ、本尊三体(重文)の「金剛蔵王権現立像」は、本地垂迹(ほんじすいじゃく:神仏混交における神が、仏・菩薩となって衆生済度のために仮の姿として現われる)においては、中央が釈迦如来、右側が千手観音菩薩、左側が弥勒菩薩の三尊とされ、何れの仏像も国内では最大級の6〜7mと巨大さである。(重要文化財)

この三蔵は秘像とされ、通常は一般公開はさていない。 
但し、特定の日のみ御開帳という形で公開されている。



明治維新で神仏分離が行われると、吉野山は金峰神社となり仏像仏具は除去されてしまう。
しかし、山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができず、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束(へいそく;裂いた麻や畳んで切った紙を、細長い木に挟んで垂らしたもの)を立てたという。 

つまり、鏡(「三種の神器」の一つに八咫鏡(やたのかがみ)というのがあるように、古代から日本人は神聖なものと扱っていたとされ、神話時代には天照大神の化身ともいわれた)という御神体を表に立てて目隠しをしたのである。

しかし、信者や民衆の多大なる不満を背景にして、政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治19年に二つの蔵王堂が仏教に復したという。


当地の蔵王では明治2年(1869年)に「蔵王権現」を蔵王大神へと改号し、吉野より勧請して「天水分神及び国水分神」の二柱を奉り、社号を吉野水分神社に倣って「水分神社」(みくまりじんじゃ)としている。 
更に、明治8年に「刈田嶺神社」と改称している。

尚、天水分神・国水分神は、日本神話では神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子としてが登場している。 
つまり、国生みの主神である「イザナギ、イザナミ」の孫に当ることになる。

水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、又、田の神や、水源地に祀られる神で、特に農耕の民に信奉され、山の神とも結びついたとされる。 
後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになったという。

次回、「上の山




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