東北紀行 (51頁)
東北地方の主に内陸部の土地々の観光、温泉、歴史を巡ってます。
( 「日本周遊紀行」の続編)
平成年22年(2010年)10月秋季
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 東北紀行(99)米沢 「上杉鷹山」 



 
 上杉神社、参道横に立つ「上杉鷹山(治憲)」像



この時期、政権を手中にした太閤・秀吉は老齢に達していた。
上杉家の奥羽・米沢移転は上杉家の希望だけではなく、むしろ豊臣政権側の都合が大きかった。 
この頃、豊臣二代目と目された秀頼には有力な身内がいなかった。

豊臣家臣・五大老の中でも徳川家康が図抜けていて、何より、“太閤秀吉に負けなかった男、太閤様の次はと徳川様”と影での評判も囁かれた。
秀吉は家康に対抗できる第二の人物を作ることだった。 

前田利家も有力視されたが、領地は家康の3分1 程度であり、これを補うために第三の策として家康を牽制する勢力を作った。 
それが奥州・上杉家120万石であった。

転封に当って景勝は・・、
「 よく判っておる。3年の内に地を計り、組を整え、城を築き、道を敷く、それができれば誰にも勝手な事はさせぬ 」
慶長3年(1598年)、44歳になった上杉景勝は、そう言い切った。 
そして心に念じた。
「 俺は越後上杉2代目ではない、奥州・上杉の創業者だ 」と


上杉景勝は家老・直江兼続に30万石を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。 
しかし、秀吉が没して数年後、徳川家康による「関ヶ原の戦い」が始まる。 
結果、東軍が勝利したが、上杉氏は家康に敵対したため1601年(慶長6年)、景勝は120万石(会津・白河・出羽国・越後国、佐渡国など)から30万石に減封され、居城も米沢に移した。 
兼続は米沢城を景勝に譲り、「米沢藩」が成立する。

石高は30万石から、後に15万石に減封されている。 
しかし、相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、当然のごとく財政難に苦しめられて民衆も極度の困窮した。


ここで登場するのが上杉家中興の祖といわれる九代藩主「上杉治憲」(鷹山;ようざん)であった。 
鷹山は米沢藩再生に伴う藩政改革、財政再建した人物であり、江戸時代屈指の名君として現在に到るまでその名が知られている。

有名な鷹山の一言

『 生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり 』


又一方、米沢藩には世を騒がした藩主もいた。 
元禄赤穂事件の、もう一方の主人公である「吉良上野介吉央」の息子である三之助は、縁あって名門上杉家の家督を相続し、第四代当主・上杉綱憲となっている。

刃傷・松の廊下以来、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り戦闘の末、上野介の首級を挙げる。 
この時、上杉藩主・綱憲は父・吉良吉央の仇討ちに出兵し、赤穂浪士を逆に襲撃しようとするが、家老・千坂兵部高房によって押し止められる。


上杉神社」は、藩祖・上杉謙信を祀り、上杉鷹山を合祀している。 
参道には鷹山公の銅像も立つ。 

又、「上杉家廟所」は上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいる。

次回、「会津若松



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 東北紀行(100)米沢 「米沢街道(会津街道)」  ,


国道121号線を行く。
この国道、山形・米沢では会津街道と呼び、会津からは米沢街道とも称している。 

街道の呼び名は各地方によっても異なるが、普通、行き先を告げたものが多いようである。 又、行く先の相手に敬意を払っての呼称かもしれない。
米沢と会津では西に聳える飯豊山の山脈が東に延びていてゆく手を塞いでいる。 

戦国期から江戸期にかけて、この山中を二つの米沢街道(会津街道)が貫いているのである。 
一つは大峠を越えるこの旧国道121号線であり、もう一方は5kmほど東にある桧原峠を越えて桧原湖畔をかすめる街道であった。


慶長3年(1598年)、秀吉から120万石を賜った上杉家は主城を会津(当時は黒川といった)に置き、主君上杉景勝が入った。 
一方、米沢は景勝の家老を勤めていた「直江兼続」が30万石で居を構えるようになる。

当時、僅か数年間であるが景勝は領地や米沢と会津を結ぶ主要道路の整備を行い、主君家と家老家は頻繁にこのいずれかの街道を行き来していたのかもしれない。


因みに、大峠越えの道が開かれたのは戦国期の天正13年(1585年)頃とされ、米沢の伊達政宗が会津侵攻の道として、ひそかに開いたとされる。 
一方、桧原峠越えは陸奥の国(会津)から出羽の国(米沢)て通じる道として、古代(8世紀代)には開かれていたらしく、戦国末期の永禄(1560年代)年間には米沢の伊達氏と会津の蘆名氏が檜原峠付近で攻防が繰り返されていたという。





 会津街道;田沢地区にある道の駅・「田沢なごみの郷」



米沢から喜多方へ抜ける国道121号線の「入田沢」は、この国道沿いにある農村でここをを過ぎると喜多方への山越えとなる。
入田沢は小さな集落だが、訪れてみると民家が数棟あり、中門造りの藁葺きの民家は重厚な造りでなかなか良い集落である。

ここに道の駅・「田沢なごみの郷」があった。

豪奢な曲がり屋の建物がメインで、何でも180年余の間、農家として実際に使用されていたらしい。
建物はどっしりとした風格でほっと安らぎを与えてくれる雰囲気もある。 
中には売店と簡素な食堂がある。 

見るべきは やはり建物の中の柱や梁であろう。
江戸期や明治の庄屋や豪農の家屋を見るような造りで、特に屋内に横たわる黒ずんだ梁が縦横に走る作りは迫力がある。 
又、本来は当然ながら茅葺き屋根のはずであったが、消防法の都合で葺き替えてあった。


 

 
 田沢地区、道の駅・「田沢なごみの郷」に立つ草木塔と説明板



ところで、この田沢地区には日本最古の草木塔があり、 草木塔発祥の地とされているらしい。 
この道の駅にも自然石では日本最大の草木塔(高さ4m20)を設置してあり、これには「自然保護」や「国土保全」 の意味合いが有るらしく、当地ではこの思想を全国にアピールしてゆきたいと考えているようである。


草木塔とは、「草木供養塔」のことである。
この塔は、山形県の置賜地方(内陸部南部を指す地方名)を中心に残されている石碑だそうで、現在、確認されている数は60基を越えるといわれる。 
このうち、最古のものは、米沢市塩地平にある草木供養塔で江戸中期頃、今から330年前に建立されている。

このきわめてユニークな石碑の由来は、草木の生命を人々の生活に取り入れるために採取したり、伐採したりした草木の霊を慰めようという思想から生まれたものと考えられている。 
今で言う環境保護の原点がここに在ったのである。
 
次回、「喜多方の産物




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